一日一節 近代の超克 要約
そもそも我々は何故近代を超克する必要を迫られているのか
それは、我々が自らのルーツを認識することが難しくなってきているからではないか
日本人とは一体なんだったのか、その美しさはなんだったのか
それを理解しない限り、いつまでも自らの檻からは出れないままである
今年で年号が変わる、しかし未だ日本での教育は閉鎖的で、基本的にあらゆるものの刻が止まっているように感じる。
形骸化した事を続けるのはやめよう、みんながやっているからやるのはやめよう
まずその一歩が、今まで日本がどのような歩みや考え方でかたち作られていったかを知り、自らの行動に落としていくことである。
その為、今回自らのアウトプットを兼ねて、ブログで一日一項目「近代の超克」を書いていこうと思う。
タイトル:『近代の超克』
著書:河上徹太郎 他 竹内 好
出版社:冨山房百科文庫
現代精神に関する覚書
執筆者:亀井勝一郎
→ここでのキーワードは近代化に伴う「同一化」と「平均化」である
近代に入り、人々は言葉、筆跡、信仰、詫寂の重要性を気づけなくなっていった。
と同時に正確な価値を認識できなくなったとも言い換えられる。
古典は、悪戯に表現され、その言葉が無数に散りながら徐々に平均化されていく中で
古典における美しさと万感の思いとは裏腹に、それをただの標語や合言葉のような、言わば魔法のような扱い方をしている。
ここで亀井氏は、近代西洋の恩恵は「空想と饒舌を生みながら早くなっていく」とその時間についても言及をしている。
早くなっていくとは、すなわち死滅するスピードも同様に早いとも言える。
他には何があるか。言葉、筆跡、沈黙の恐怖である。
言葉を簡易化した結果、言葉の深さなんてものは存在しなくなった。
そもそも、言葉にできないような思いをあえて言おうとする切なさにおいて、言葉とは成立していたし、そのくらい言葉の重みは重く、そして深かった。
「一語にこもる無限の意味を的確に考える能力の欠如」現代における我々若者が持たなくなってしまった、持てなくなってしまったものである。
筆跡に関しても同様ではないか?
そもそも、以前はその言葉に篭っている神韻を知ろうとしていたのだ。
それは古典を写経するのではなく、何を思いどう感じたかのルーツを知ろうと書き写すのだ。
曰く「言葉の脱落」は「思想の脱落」であると述べている。
つまり、論じること事象だけに価値はないのである。
そもそも、何故、この平均化が根付いているのか?
その答えは、啓蒙意識とスローガンである。
大衆にわかりやすいものに平均化して伝え、国民全員が理解できるように落とし込まれた。しかし、一転してその親切なわかりやすさは、言葉や物の本来の美しさを根本から抜け落とさせる諸刃の剣なのである。
現代も要約でないと理解できなくなっている弊害はまさに平均化である。
最後に沈黙の喪失である。
そもそも、沈黙の喪失とは全てへのリスペクトの無と同様であるのではないか
現代において、カメラがあれば、さも当然のように万物に向けられる。
その中で、確実にセンシティブな内容であっても、現代において撮ることは当たり前、当然の権利であるかのように主張する。
しかし、その沈黙こそ思いやりであり、最大限のリスペクトである。
つまり、近代西洋化によって人々は平均化され、その価値観は同一化していった。
それにより、もともと日本人が持っていた強さの正体が姿を消したのである。
明日は宗教と世界観について述べたいと思う。
以上